去る2010年4月25日(日)「召命の集い」というイベントがありました。 当日のミサの中のお説教は、日本カトリック神学院の松浦神父様のお話でした。一人ひとりが神様に呼ばれていること、 そして与えられた大切な命を自分らしく生きていくことなどについての分かち合いがありました。 その時の松浦神父様の お説教を紹介します。
わたしたちの命を見る視点、召命の原点
(召命の集い 松浦信行神父様のお説教)
私は他の教会へ行って話す時は子どものために話すようにしています。子どもたちにとっての召命とはなにか、子どもたちにどんなことを考えてほしいかを考えてみました。そこで『100万回生きたねこ』という絵本を紹介します。(ここで神父様の素敵な朗読!)
この猫は王様のねこだったり、船乗りの猫だったり、色んな人の飼い猫だったけれども、猫は決して満足しません。しかし自分のままの猫になったとき、自分らしくなったとき、猫は初めて満足します。そして自分らしくなったときに初めて自分の大切なものが見つかってきます。だから100万回生きるよりも、1回大切なことが見つかり、そのために生きることのすごさ、すばらしさをこの絵本は私たちに教えてくれるのかなと思います。
神様の召命は、自分らしくなること、そして自分の中で大切なものが見えてくること。この大きな2つのポイントがあるということをこの絵本の中で心に留めてほしいなと思います。
それでは大人の方々に、今味わったこの絵本の感覚をもとに私たちのキリストへの思いを深めていきたいと思います。
みなさん、ルルドをご存知でしょうか? 有名な奇跡が起こるという泉があるフランスの場所です。そこに、アレクサンドロ・カレルという方、この方はカトリックの家庭に生まれ、カトリック信者だったのですが、世の中のいろんな混乱を見ていてだんだんと心が変わり、後々共産主義者になりました。そして学校で一生懸命勉強してノーベル化学賞を受けました。この方がルルドの話をどこかで聞いたのです。聞いたときに彼は、「私の頭でルルドには奇跡がないということを証明してみせます!」ということでルルドに乗り込みました。
ご存知のようにルルドにはたくさんの人が集まってきます。「その人々に奇跡は起こらないのだ、ということをじっくりと調べて証明してみせます」と彼は意気込んでいたのですが、一年もたたないうちに彼の気持ちは変わりました。そして彼は公に言うわけです。「ルルドには私たちにとって大切な奇跡がいつも起こっている!」ということを述べ伝えていきます。それからは熱心なカトリック信者にかえってきました。
彼が言うにはこういったことなのだそうです。「ルルドしか、もう生きる望みがないという人が、ヨーロッパ全土から毎日何万人も何十万人も、自分のお金と時間と人々への願いをかけて専用列車で集まってきます。ルルドがだめだったら私の人生など終わりなのだと、これほど自分の人生をルルドにかけながら、多くの病人たち、あるいは人生を切り開けない人々が集まってくる。」
彼はそれをじっくり見つめながらあることに気がついていきます。「ルルドに何十万人もの人が来て、奇跡が、あるいは不思議なことが一つも起こらなくて、何十万人の人々がまた同じように毎日自分の家に帰っていく。しかしながら、ここで大きな奇跡が起こっていることを私は発見しました。」こういうことを彼は私たちに語るのです。
「ルルドに来る前は病気や困難がその人の主役でした。その人の人生の主役は病気だったのです。苦労だったのです。しかしルルドから帰っていく人々はなに一つ文句を言わず、聖母に、神に、文句を言わず帰っていく。彼らは帰っていくときに初めて自分の人生の主役は自分だったのだと気づき、『自分がこの人生を生きていくのだ。病気が、困難が主役ではないのだ。』という思いでそれぞれの家へ帰っていきます。これこそルルドで起こる最大の奇跡です。」このことをアレクサンドロ・カレルは私たちに語り伝えているわけです。
同じように、私が大阪の梅田の近くの教会にいたときに、私と同じ年でスナックをやってらっしゃる女性の信者さんがいらっしゃいました。実はお会いした時もうすでに癌の末期でした。彼女は始め誤診したお医者さんに対するすごい恨み、残された一人息子をどうしたらいいのか、あるいは借金をしてお店を開いたけどその借金はもったいなかった、という思いで悶々としていた中で、ルルドに行き、あるいはルルドの聖母に夢で出会いながら、心ががらっと変わっていきました。
病気を恨むというよりも、病気である私に命をくれた、命が与えられたその大きな大枠をまず私は認めなければいけない、こんな思いにさせられました。そのあと、主治医が生きがい療法の治療のお医者様だったので、曹洞宗の檀家の集まりに行きながら、「マリア様素晴らしいですよ、命を与えてもらったのは素晴らしいですよ」と仏教の人たちの集まりに出かけては話し、亡くなる寸前までそういう活動をされていました。
私たちの命を見る視点、このことに私たちの召命の原点がある。私たちが本当に自分の命の主役なのか、私たちが本当に自分の命を受け取ることを喜びながら、その命を生ききるのだ、という思いがあるのかどうか。これが大きな意味での召命の原点になっていくと思います。
価値明確化の作業です。人間は不思議なもので自分の価値、自分の大事なものがあやふやなときに人の圧力や世間の圧力に流されていってしまう、そして知らないうちに自分が自分でなくなっていってしまう、そういうことがあるそうです。そういったとき、価値や、自分の奥深くになにが大事なのか見つけ出す作業をするときに、人間は自分の持ち味を活かして生きようとする力と、自分への自信と、そして人々へのあたたかい心が広がっていくのだ、とある本に書いてありました。そういうわけで、子どもたちにはこの頃そういったインプットをするようにしています。
この価値明確化の作業には3段階あるみたいです。①自分で選ぶ。②選んだことに誇りを持つ。③選んだことを生き続ける。
よく考えていくとこの3つの作業はある意味で、私たちの信仰の歩みと重なっていく部分が非常に多いということに気がつきます。たしかに私たちを選んだのはまず父である神だったと思います。しかし私たちも父を見つけ出した、私たちも主をみつけたのだ。私がこの生き方が素晴らしいという形で選んだのだ。そして私たちはこの選んだものに誇りを持つ。ある意味では一つの生き方を私たちがしていたとしたら、主婦業であったとしても、会社員だったとしても、私たちのように教職についていたとしても、その一つ一つの出来事が神の国を形作る大切な一瞬なのだという形で誇りを持ち続けていく。
私たちはどんな出来事であったとしても神の国を作り出すのに反することはありません。私たちが神を見つめて動くときに、それは神の国を形作る小さな一歩として、大事な一歩になっていくはずです。誇りを持つ。私たちはキリスト者である。あるいはそれを公に言う必要は全然ありませんが、私は大切なものを大事にしながら日々一瞬一瞬そこに向かっている、これが私なのだ、という誇りを持っている。そしてそれを生き続けて行く。一つのことを生き続けていくときに、もしそれが神にかなわない生き方だったとしたら、たぶんそれを神は強制的に変えていくということをなされるはずです。
みなさんがよくご存知のマザー・テレサはある修道会の修道女でした。しかし目の前にある一つのできごとに出会ったときにマザー・テレサは修道女であることをやめていくわけです。そしてマザー・テレサを動かしたものは次の一歩。これもまた私たちが生き続けることに困難を感じたときに、神が私たち自身を本当に強く動かしてくれる、この信頼があるのかもしれません。
そしてその前に先ほど言った第一のポイント、私が私らしく生きていく、私が私の人生を選ぶことができるだけ私は研ぎ澄まされている。このことが非常に大事になってくるのではないかと思います。
そういった意味で召命ということを考えていくときに、それは一つ一つの具体的な生き方だけが召命ではなく、ある意味で私たち一人一人の生き方そのものが召命の深み、豊かさ、喜びの中で一瞬一瞬が迎えられていく、自分になり続けていく。この招きが召命の日の根底にあるのだということを私たちは忘れてはいけない。こういう気がします。
そういった意味で主任神父様が『二十六聖人』で書かれているように、誰もがこの召命に出会わなければ私たちはキリストを深く知ることができない、そういった味わいを今日私たちの中でお互いに確認しながら次の一歩へ進んでいきたいと思うわけです。
父と子と聖霊との御名によって。アーメン。
